「あの〜死にたいのですが……。早く」 俺の目の前に座っている、初老の男が言った。俺は、間を繋ぐように言う。 「まあ。まずは、落ち着いてください……」 男は、65〜70歳位だろうか。白髪交じりも多くなった禿げた頭髪。茶系統の地味な全身の服。頭をもたげて、両肩を力なく落とし、全身には覇気が無い。 「先生。この前は……。嘘を付いたのですか? 酷い……一刻も早く殺して欲しい……」 男は、強い不満感と失意を言葉に込めて言ってきた。 パソコン画面に、この男のデータが表示された。この患者の名前は、田中昭一、55歳。随分と実年齢よりも老けて見える。その時、画面上の一つの項目に気づいて凝視した。 ああっ! その項目には『2回』と表示されており、俺はその表示を見て思い出したのだった。田中昭一は、俺が診療している患者で、今回で3回目の診察だった。俺は、ゆっくりと左腕を動かして、目の前の男からは死角となる、机の左側面の非常用連絡ボタンに指を掛けた。 「田中さん。落ち着いて……。確かに私が、前回処方させていただいた薬は、偽物です。ですがね……。我々医師としても簡単に、『安楽死薬』を出すわけにはいかないんですよ。合法的になったとはいえね。それに……」 田中昭一は、俺の話しを遮って、悲嘆と悲痛と絶望のすがる声で返答してきた。 「酷い先生だ。私は、私の人生はもうお終いだ! 会社は倒産し借金地獄で。妻とは離婚し家族は離散した。子供とは面会もできない。住む家は無し、就ける仕事のもはや無い。もう望みは潰えた。私は……死ぬしかないんだ!」 俺は、左手の人差し指に掛かる、非常用連絡ボタンを押した。さらに、パソコン画面の『非常連絡』の画面ボタンをクリックした。
俺にとっても、ここは正念場だ。胸の高鳴りを押さえつけるように、静かに深呼吸した。 「田中さん。お気持ちは……お察し致します。しかしね、人生はまだ長いのですよ。いくらどん底でも、妻と子供に見捨てられても。家庭が崩壊したとしても……。まだまだ死ぬのには早すぎます。55歳からの人生、まだ再起が可能ですよ。お気持ちを……」 俺は、なるべく励ますことを意識しながら言った。しかし、田中昭一はさらに激しい口調で言い返した。 「先生! 私はもう、後はもう死ぬだけだ! 先生がね……薬をくれないんだったら……このまま何処かの高いビルの屋上から飛び降りるだけだ! 私の意志は堅い! 私は今すぐに死ぬ!」 意思は、確かに堅い! 決まりだな。 ここからが重要だ。俺は、自分の気持ちを冷静に保つように意識した。 「まあまあ。落ち着いて……。分かりました田中さん。私も決断しました。本物の『安楽死薬』を処方しましょう。でもね。前回の時のように自宅で自殺するということは、出来ません。実は、それは法律で禁じられているのです。本物の安楽死薬の投与の場合は、専用部屋で行わなければなりません。良いですね?」 田中昭一は、意思を強くうなずいた。俺は、もう一度意思を確認した上で、既に奥で待機していた看護婦から、死亡誓約書を受け取り、田中昭一にサインさせた。
俺と看護婦の二人で『安楽死部屋』に案内した。簡素な扉の前で、俺は『安楽死薬』を1錠分だけ渡した。俺は、部屋の前に残り、看護婦が田中昭一を部屋の中へと誘った。看護婦が説明する時間が数分……。看護婦が一人で、暗い部屋から出てきて、重い扉は閉じた。同時にポンッと扉の上にある赤い表示灯が点灯した。 俺と看護婦は、形式的に顔の正面で両手を合わせて、深く目を閉じた。俺の口元は、緩んだ。
よく考えられたものだ。 3年前に、政府が国会で可決させた『自殺奨励法』は初年度さえ、世論とマスコミに叩かれたものの、3年目にして日本国民の意識は、それを受け入れた。それまでに日本政府が抱えていた大きな問題……。 新幹線を含む鉄道における線路上や、車に飛び出しての一般道路での自殺による公共機関の甚大なる損害。さらに、腎臓等の移植用臓器の極端な不足の問題。 実際に自殺を決行する人物は、周囲の人に相談したりはしない。自分独りの中で葛藤し自分を追い込み、精神は疲労困憊して死を選択し、そして人知れずに死んでいく。とはいえ、以前の自殺の方法は、極度に恐怖と苦痛を伴うものばかりだった。 『安楽死』が合法化され、苦痛を伴わない死に方を認識すると、それを実行できる医院に自殺志願者が集まる。これは今まで展開されてきた無残な死骸、木っ端微塵となる死体という状態を回避することになる。その臓器がもったいない、と感じる移植医療にとってはありがたいことだ。 そして、『安楽死薬の投与は三回目以降』という法令は、安易な自殺を選ぶ若者や、その他の自殺志願者を思いとどませる効果もある。精神的に孤立している人は、医院に訪れて、しかも医師と会話することで思いを変える場合が多い。診療に来た一回目と二回目は、本人には知らせずに『偽の薬』を与える。まあ時間稼ぎということだろう。 それに……。俺にとっては嬉しいことに、安楽死を実施し移植に貢献した医師には、高額な報奨金が支払われる。普通は、自分の医院で人を殺すというのは、合法化されたとはいえ忌むべきものだろうから……。
田中昭一は、俺の前に三回訪れた。そして、本物の安楽死薬を持って部屋の中にいる。既に俺は『非常連絡』をしてあるので、臓器移植部隊と臓器を待つ患者の準備は、万端のはずだ。 俺と看護婦は、固唾を呑んで扉の前で待っている。田中昭一が、脳死状態となれば扉の上にある、赤い表示灯が消えるはずだが……。
赤い表示灯が点いたままで、重い扉が開いた。田中昭一が、部屋の中から生きて出てきた。そして生気が少し甦ったかのように言った。 「先生。一人で冷静になって、やさしい先生とお話して……。頭が混乱してましたが。なんだかどうでもよくなってきて……。もう少し頑張ってみようかと……」 まったく、『安楽死薬投与は三回目』という規則は生ぬるい。政府は、この法令を是正すべきと思うのだが。 田中昭一は、裸になった薬を掌に乗せて、俺に差し出して言った。 「先生。ありがとうございました。もう……この薬は必要ありません」 しょうがないな。俺は、高鳴る気持ちを抑えつつ言った。
「ああ、田中さん。それは単なるビタミン剤ですから飲んでも結構ですよ!」
おわり
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