| 小熊のキス |
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初春の暖かさは、私の目覚まし時計。冬ごもりから目覚めた。 私は、子持ちの母熊。 雪と土の重い扉を背中で踏ん張ってから、足で押しのけると。やわらかい陽の光と、冷たいきれいな風が土部屋の中にそよぎ込んだ。 私のかわいい小熊は、私の右腕の中でまだ眠っている。ふさふさの真っ白な柔らかな毛並み。小さな頭と小さなお口。長いまつ毛がとっても愛らしい。 小熊の鼻先が、ひくひく動いた。目は瞑ったままで。 くあ〜あ。 小熊が小さな白い歯を見せて、口を思いっきり広げてあくびをした。 ぐぁわ〜ぐあ。 私もつられて、大あくびをした。私の声にちょっとビックリしたように、小さな体をぴくぴくっとさせて、小熊が目覚めた。大きな目に涙を滲ませて、私を見上げてにっこりと笑った。 私は、邪魔な土と湿った雪を穴の出口から払いのけて、頭を出した。クンクン。 暖かになった空気の中に、敵となるような獣の匂いは無い。眼の前を小さな黄色い蝶が、ハタハタと舞い去る。 ガバンッと私の巨体を押し出して、肩に残った土雪を払い飛ばしながら、穴倉から出た。小熊は、必死に登ろうと出口に両腕を掛けたが、後ろ足が滑って、バタバタと滑る。私は、小熊の首筋を柔らかく噛んで引き出した。 湿った鼻先に、陽光が温かく触る。遠くの方で歌う、小鳥たちのさえずりが心地よい。 眠けがまだ背中に残る。体が温まるまで、しばらくは休もう。さっそく小熊が私の乳に吸い付く。私は、右腕で小熊のお尻を支えた。 私の鼻穴に同種の匂いが届く。クンックンッ。 おそらくは風上にいるであろう熊だが、まだ遠い。成人の雄熊であれば警戒が必要であるが、この匂いは若い雄の熊であろう。危険はまだ小さいが、警戒は怠らない。あくびをしながら起き上がる。 くう〜ん。 おっぱいを飲んでいた小熊が、まだ飲み足りないと催促の声。そろそろ動ける準備が必要。 ガサガサッ。 少し先の笹の群生の奥から音がして、さっきの若い雄熊がゆっくりとこちらに上がって来た。 この子を連れても十分逃げれる距離。相手には、狂気じみた大人の雄特有の殺気は無いようだ。若い雄熊と視線が合う。興味深深のようだ。若い熊は、ゆっくりと少し遠巻きに近づいてきて、ぎりぎりの距離感で止まった。 私は、これ以上近づくことは許さないと、目に力を込める。その若い熊は、まだ親離れしてから浅いように感じられる。私の半分くらいの体の大きさだが、それなりには自力で生活しているようだ。肉体には若い力がみなぎっている。だが目にまだ甘えがあった。 ぐぐうぐう。 喉の奥から声を発して。私は、鼻筋に力を込めて表情を強張らせる。相手の方が退散した。 眠気が覚めて身体に意識が巡ってくると、突然に強い空腹を感じた。身体に力が抜けてしまう前に、何か食べなければならない。この子のためにも。 小熊は、無邪気な表情でトントンと飛び跳ねて。小熊の鼻に止まったテントウムシと格闘している。 お腹が減った。 私は、ぐうるうっと鼻声を小さく発して、小熊を誘って出発した。 若い黄緑の葉を食べる。ふきのとうを食べる、これはおいしいし体調にもいいものだ。栗の木を見つけた。冬ごもり前のことを思い出して枝先を見つめるが、今はその季節ではない。両足立ちして右手の鋭い爪で、木の皮を剥ぐ。おいしいとは言えないが少しはお腹の足しにはなる。しょうがないので栗の木の中ほどまで登って、枝先の新芽を摘むとしよう。 木に登るとき肩に力が入って、右の肩に少しの痛みを覚えた。まだ痛い……嫌な匂いを思い出した。 お腹が減った。全然足りない。空腹感は満たされない。 きゅ〜ん。くう〜ん。 遊び疲れたのか、小熊がお乳の催促をする。どっこいしょと私は、腰を下ろして一休み。小熊にお乳を与える。 さらに山奥へと向かうか……。小さい獣に出会えれば、お腹が満たされるが。ここ数回の季節の巡りの間は、なかなか小さな獣を見つけられなかった。直ぐに脳裏には、おいしい食べ物の記憶がよみがえる。ここから山の斜面を下って、麓まで行けばずっと美味しい食べ物を容易く見つけられる。しかし……。 気がつくと、私の口元から涎が、滴り落ちる。美味しい記憶は、忘れられない。私は、小熊を連れて歩き出した。 夕日の橙色が美しく山腹の斜面を照らす。木と葉の側面が夕日を拝んでいるようだ。 クンクン。鼻の奥に入る空気が、変わり始めた。どこか淀んで、どこか粉のように臭い。あまり好きではなかったが、何も好き好んで来たりはしないが、食べる欲望にはなかなか勝てない。直ぐに森の切れ目に到着した。 ここまで来ると、もう人臭さが充満している。近くには動く気配はない。人は居ないようだ。直進しようとすると、眼の前で止められた。 銀色のとげとげの太い線が横に数列並び、剥いだ木に付いている。人の作った”柵”というやつだろう。行く手を遮られる。 この先には、美味しい世界があるのに……。 手で強く押し付けると、痛い。これ以上は進めない。この”柵”は、右と左にずっと続いているようだ。 左方向のすこし離れたところに、別の熊が居た。既に居たのか? 何時から居たのか? 私は気がつかなかった。 出遭ったことがある、あの若い熊だった。夢中で柱の地面の方を前足で、小突いている。ふっと、その若い熊と目が合った。若い熊は気にせずに小突くのを続けた。 私は、しばらくこの場で、”柵”の前で伏せって、体を休めた。元気な小熊は、私のまわりではしゃいで遊ぶ。ぐるっと回ったり、私の胴に登ったり、立ったり。意識は、常にガリガリとしている若い熊のほうにある。 ガコンッ。 少し大きな音がなった。頭を上げて、若い雄熊の先を見ると、身体を穴に苦しそうに、ねじ込んでいる。踏ん張ってなんとか”柵”の外に出たようだ。 ぐうぐうふうふうー。 若い雄熊は、勝ち誇った声を腹の奥から発して、こちらに一瞥して前進した。遠い向こうには、人の”家”が見える。 夕日は沈む方角を赤く染めてはいるが。日はまだ明るい。まだ少し危険だ。夜まで待たなくては。 しかし、どうするか。この線を越えることは……。私にも勿論、愛する小熊の危険にも繋がる。このまま帰ろうか? でも食べなければ私の体も、そしてこの子の元気ももたない。私は、小熊を眺める。 小熊は、遊び疲れて、私の胸元で横になって。直ぐに寝息を立て始めた。私も少し、危険を察知する意識は残したままで、目を閉じることにしよう。 夜の暗い日。月は、少し厚めの雲に隠されている。辺りはどんよりと闇が下がる。 今。私は、人の里に向かって進んでいる。明るい光の塊を避けて、避けるように暗い場所を見つけて進む。小熊を引き連れて。あの若い雄熊の開けた穴を通ってきたのだった。多少は狭かったが、力でこじ開けて隙間を広げることは容易かった。 神経を集中させて、周りの気配に注意する。人に注意する。特に”人が連れている犬”は危険だ。奴らは鼻が効く。山野で遭えば敵ではないが、奴らは人を呼び寄せる。 ……見覚えのある臭いと、暗闇の中の黒い風景……。この先には、以前に”犬”が居たことを思い出す。すこし迂回しよう。 真っ暗な闇の中で私が既に感じている、あの若い雄熊の匂い。その方向から苦痛と悲鳴のような体を振り絞る声が、細く低く聞こえる。 私は、小熊の首根っこを口で押さえつけ、自分の鼻をぐうっと鳴らした。小熊は、言うことを聞いて、両手足を力いっぱいに伸ばして伏せた。そのままじっとしている。 私が慎重に近づき、木の塊の陰からその先をそおっと覗く。 若い雄熊は、鉄の棒の四角い箱の中に閉じ込められていた。もがき疲れた様子で、闇の先のこちらを見ている。私にはどうすることも出来ない。あの箱の中に入っている食べ物は、食べてはいけない物だ。私は、私が若い時に私の兄弟が捕らえられたことを知っていた。この場を去った。 少し先に。光の塊が照らす地面に、それはあった。今も覚えている、大きな四角い木の箱。この中には、煌めくように光り輝く食べ物がたんまりと入っているのを私は、知っていた。魔法の箱。普段生活している山野では、まったく見たことがないもの。あの中に頭を突っ込むと夢心地になるのだった。 辺りを注意しているが、空腹は限界に達して、鼻の穴に入り込む美味しい匂いに耐えられなかった。私は、少し小走りになって木の箱に近づいた。私は、力ずくで乗せてある木の板を剥がした。 もわっとした夢の匂いの塊に、私の頭は包まれた。水のような透明の布を引き剥がし、中身の食べ物を引き出す。こんなに美味しいものは食べたことが無い。食べられるものは小さいくして、小熊に与える。小熊は、ビックリした様子で夢中で食べる。私も、貪り食った。 私は、少し満たされた。だがまだ足りない感じだ。”味”に魅了されて山へは帰り難い。私は、小熊を連れて少し徘徊した。 私の注意は、少し散漫になったかもしれない。気づくと、眼の前に”人の家”があった。確かにこれは、近づき過ぎだった。しかし、しかし……。私の鼻を捕らえて離さない、あの匂いがもう眼の前にあるのを感じている。 私と小熊は、”人の家”と”人の家”の間をすり抜けた。そこに、少し小さめの丸い箱がある。私は、直ぐに軽い蓋を跳ね除けて、引き倒した。あれが、転がった。ずんぐりの足のような形で、先に赤い小さな蓋が付いている。中胴はふにゃふにゃに柔らかい。前足の爪で軽く、ブチュッと、潰して中身を出す。舐めると、これはもう全身に電気が走るほどの旨い食べ物だった。人は、これを”マヨネーズ”というらしい。 ガタタッ。 突然に! 私の意識の中に音が入り込んできた。音の方向を見上げると、光の塊に照らされて、そこに”人”が立って居た。 ”人”は、ビックリするくらいの至近距離にいて、こっちを震えながら見ている。私の油断だった! こんなに”人”に近づいたことは無かった。 だが、その”人”は、女だった。しかも弱々しい年取った”女の人”だった。両手には、小さな箱は持っていたが、武器らしいものは持っていない。 人は油断できないが、この”人”は、私の敵ではなかった。逃げてもよかったが……。 ぐぐううるる。 鼻筋に力を込めて、威圧した。その”人”は、震えて声にならない叫びを上げて、逃げて行った。 ガチャン。 その女は、手に持った小さな箱を、捨てて行った。私は近づいて、匂いを嗅いだがなにも匂わない。どうやら食べ物では無いらしい。私は、その硬そうな小さな箱の上に、片腕を置いて体重を少し掛けた。 バキッツ。 壊れた小さな箱から、キラキラ光るものが小さく散った。赤色、青色、紫色……。山々で見た美しい風景の色が、小さな小石に閉じ込められて、光によってキラキラと煌めく。やさしく触れると瞬く。小熊は、とても喜んでキャッキャッとはしゃいで飛び跳ねた。喜ぶ小熊の様子を見て、私も幸せだった。 意識の散漫は、油断となって直ぐに後悔に変わった。”人”が小走りに近づいてくる。少し力強い足音、さっきの女では無いようだ。この臭い……”犬”もいるようだ。私は、少し離れた小熊の首筋を噛みに行ったが、少し遅かった。 直ぐ目の前の角から、けたたましく吼える犬とともに、”人”が現れた。 近い!! ”人”は仁王立ちにたったままで、私に向かって低い声で喋っている。その人は、”男”だった。弱々しい年取った”男”ではあったが、私は既に危険を察知している。この”男”の両手でもっている長い棒……。”銃”という武器には恐ろしい力がある。 私は、知っている。見たことがある。右肩の激痛を思い出す。右肩から噴出した、真っ赤な血を思い出す。私の全身に痺れるような電気が突っ走り、すぐに全身に振るえが到達する。私より小さなその”人”は、何だか大きくなって、巨大に見えた。明らかに私より強大で、私より強くて恐ろしかった。私の小熊は……?? 犬は、人の少し前に進んで、キャンキャンと吼えながら小さく前後にジャンプしながら、こちらを威圧してくる。小熊は、犬に怯えて小さく震えて動けなくなっていた。”犬”と私のちょうど中間に、動けない小熊が居た。 私の宝……。私の一番大事なもの……。私の愛する子……。 ぐぐぐるるるぐるうう。 私の全身から力がみなぎり溢れ、激怒の表情で”男”を威嚇する。人間の”男”と目が遭った。その目には私に対する恐怖と決意があった。本能の予感は逃げるべきだと判断したが、私も引けない。 迷う。 私の全霊を持って、激しく大口を開け牙を誇示して”男”を威圧すべきだが、迷った。”銃”が私を狙っている。その線を越えることが出来ない。その線を越えれば、撃たれるであろうことが予想できたからだ。 はためく蛾が、光の玉の中に飛び込む。バチバチッと光と闇が交錯する。私は、素早く小熊の首筋を噛んで、”男”に背を向けた。背後の暗闇へと飛び込む。闇の中に入ったと思った瞬間に……背後から聞こえた。 ガウンッ。ガウンッ。ガウンッ。 きゅ〜ん。きゅ〜ん。 気がつくと、明るかった。眼の前に小熊の顔がある。とっても心配そうな顔。いままで見たこともない小熊の悲痛な表情で、私を見つめる。私は、横たわっていた。自分の体を意識して動かそうとするが、まったく動かない。私の頭さえ動かせない。血の匂いがする。すっと前にも嗅いだことがある私の血の匂い。 目を見上げてみると、背の低い草原の中に居る。その先には、剥いだ木についている鉄の線が……”柵”が見えた。 ぐふう。ぐふう。 私は、小熊に『向こうに行きなさい! 柵の向こうに!』と言った。私が居なくなれば、小熊も生きてはいけないのは明らかだったが、私にはそれしかできなかった。何度も何度も言ったが、小熊は言うことを聞かなかった。小熊は、悲しく鳴いて私からは離れなかった。 私の視野を埋める小熊の表情が、私が見える光景が薄暗くなり始める。泣く小熊の声。小熊の顔は、暗闇の壁に遮られ見えなくなった。 でも、まだ声は聞こえる。 小熊は、私の動かせなくなった口からダラリと伸びる舌先を、ペロペロと舐めている。 遠くに聞こえるサイレンの音。近づく数人の”男”の気配と。嫌な犬の臭い。 ああ、どうか助けて。 ああ、私のかわいい小熊。キスをして。 私は深い闇に落ちて、眠った。 おわり
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ひろ
2007年 公開 ■この作品の著作権は「ひろ(ひろたか)」にあります。無断転載は禁止です。 |
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